WORDBRIDGE|ワードブリッジ

プロフィール PROFILE

ワードブリッジは金田ブレンダによる通訳・翻訳サービスです。

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金田ブレンダのヒストリー

一生涯をかけて
人の心と心をつなぐ架け橋になりたい

シカゴで生まれ育ち、日本のことなど何一つ知らなかった私の日本との最初の出会いは、13歳の夏でした。ホストファミリーとして、日本からの交換留学生を迎えた時のことです。彼女の英語はお世辞にも上手ではなく、私の日本語も勿論ゼロ。 それでも二人は意気投合し、あっという間に大の仲良しになってしまいました。

彼女が日本に戻ってからも、私たちは手紙を交換し続けました。そして今度は私が大阪の彼女の家で夏を過ごせるようになったのです。 私はそのとき16歳でした。その日本滞在の体験は、私の中の何かを劇的に変えました。人生の目標のようなものが見つかったのです。日本と恋に陥ってしまった私の心には、「大好きな日本を世界中に知ってもらいたい」、そんな情熱が燃え上がっていました。 逆に日本の人たちにも、「たとえ肌の色、顔かたち、話す言葉が違っても、私たちを結びつけてくれる何か共通のものがある」ことを是非伝えたいと思いました。

20余年を経過した今でも、あの時、私の心を突き動かした「情熱」は少しも衰えていません。 それは、一生涯をかけてでも、人の心と心をつなぐ架け橋になりたいという、カタリストとも呼ぶことのできる抗しがたい力でした。

再び日本へ

16歳の時に体験したあの日本の夏がきっかけで、私はイリノイ大学で日本語を専攻し、東アジアの言語や文化を勉強するようになりました。在学中、私は枚方市の関西外大で半学年を過ごす機会に恵まれました。 日本の人たちが英語を話す世界とつながりを持つのをお手伝いしたい、私のそんな抱負をさらに強めてくれたのがこの時期でした。イリノイ大学卒業後、今度はJETプログラムのALT(外国語指導助手)として大阪に在住することになりました。 そして3度のALT契約を更新した時には、私の中の日本は、しっかりとした礎を持つ確かなものに築き上げられていたのです。

言葉で人の心と心をつなぐ

それからの4年間を、私はあちこちの学校や会社で英語を教えて過ごしました。 英語でコミュニケーションをするためのツールを生徒たちに提供するという自分の仕事は、実際、やりがいのある仕事です。 でも、何かが欠けていました。自分が手がけた仕事の実を自ら味わうことがほとんどできずにいたからでしょうか。

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンで仕事ができるかもしれないということを耳にしたのはその頃でした。自分のバイリンガル能力を活用できる場所です。 初めの内は、プロダクション・コーディネータとして、新しいショーの製作を担当する日本語側と英語側の仲介役を務めました。 コスチュームや小道具を調達したり、リハーサルやミーティングでの通訳をしたり、スケジュールや日程を立てたり、脚本、メール、プレゼン、マニュアルなどの翻訳をしたりしていました。 自分のバイリンガル技能が鍛えられるだけでなく、外交手腕や組織力なども磨かれていきました。

担当していたプロダクション関係の仕事も大好きでしたが、充実感や達成感を持てたのはやはり、自分が英語を話す人たちと日本語を話す人たちとの架け橋になっている時だということに気づいたのは、USJに勤めていたこの時期でした。自分の職種を「翻訳・通訳」と呼ぶことにしたのはそのためです。 インタースクール大阪校で会議通訳コースを受講し始めたのもちょうどその頃でした。

翻訳者、通訳者として

夫と出会ったのも実はこの頃です。会議通訳コースを修了した私は、彼の住む長野に行って一緒に家族を始める決心をしました。勿論、仕事も新たにスタートです。

フリーランスの通訳・翻訳者として働き始めて7年になろうとしています。この職種でのキャリアで言えば15年以上に及びます。人々が互いにコミュニケーションを取り合い、協調して働くのをサポートする自分の仕事が実を結ぶのを見るのは、それ自体報酬であり充実感に満たされる思いです。 手助けしたクライアントが目標を達成したり、事業に成功したり、クライアントを勝ち取ったりするのを見ると、私自身多くを学ぶことができます。

エンターテイメント業界で活躍したいという私の「初恋」は未だ健在ですが、宣伝、教育、マーケティング、スポーツ、マスメディア、法律、工学、リサーチ、デザイン、ウェブデザイン、ローカライズ、化粧品、経営、飲食料品など様々な産業でクライアントをサポートできるこの仕事は、ずばり幸福感の極みです。